さすが原始仏典。この本もすばらしかったです。
第1遍 「道」に関する集成
第2編 「さとりを得るための事柄」に関する集成
第3編 「四つの専念の確立」に関する集成
第4編 「資質」に関する集成
この本(原始仏典Ⅱ相応部経典)シリーズの日本語訳は既存の仏教用語をなるべく使用しないで仏教に詳しくない人にも理解できるようにわかりやすく訳しています。
例えば、「悟りを得るための事柄」は「七覚支」だし、「四つの専念の確立」は「四念処」になります。
この本で訳されている経典の言葉は古くからの仏教用語だと何かと考えながら読むと理解が深まります。
さて、第2遍ではさまざまな瞑想が説かれています。
興味深いので箇条書きにします。
●骸骨を思い描くこと
●蛆虫を思い描くこと
●青い腐乱色を思い描くこと
●散乱を思い描くこと
●膨張を思い描くこと
●慈しみを思い描くこと
●憐れみを思い描くこと
●よろこびを思い描くこと
●平静を思い描くこと
●呼吸を思い描くこと
●不浄を思い描くこと
●死を思い描くこと
●滋養に対する嫌悪を思い描くこと
●全世界に対する不快を思い描くこと
●無常を思い描くこと
●無常における苦を思い描くこと
●苦における無我を思い描くこと
●捨断を思い描くこと
●離貪を思い描くこと
●止滅を思い描くこと
いろいろな瞑想がありますね!修行者の資質に合わせて選択するようです。
ちなみに蛆虫とか青い腐乱色の瞑想などは死体の変化をイメージする瞑想です。
例えば墓地に棄てられた死体が、死後一日、あるいは二日、あるいは三日
と経つうちに、 膨張し、青黒くなり、膿ただれて腐ってしまった身体を
見るように、この身体のみに集中する。「この身体も、このような性質の
ものであり、このように成るものであり、 このような状態をまぬがれ得
ないものである」── と。
このように、内の身において、身を観続けて住む。
あるいは、外の身において、身を観続けて住む。
あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
また、身において生起の法を観続けて住む。
あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
「身体はこのようなものである」という念が現前する。
彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着
することがない。
最後に「老い」についての経典を引用します。
このようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティー市にある東の公園のミガーラマーツ堂に滞在していた。
あるとき、世尊は、夕刻に、黙考の修行から立ち上がって、西日の当たるところに座って、背を陽に当てていた。
そのとき、アーナンダ尊者が、世尊のところにやってきた。やってきて世尊に挨拶をして、自分の手で、世尊の肢体を順に擦り、世尊に次のようにいった。
「稀有なことです。尊いお方さま。未曾有のことです。尊いお方さま。いまや世尊の皮膚は、白くなく、清潔でもありません。肢体は、いたるところが、柔らかくなり、皺だらけです。体は前屈みとなり、感覚器官、眼という感覚器官、耳という感覚器官、鼻という感覚器官、舌という感覚器官、身体という感覚器官には、異常が見られます。」
「アーナンダよ。そうなのだ。青春のうちに必然的に老いが存在する。無病のうちに必然的に病が存在する。そして、皮膚は、白くなく、清潔でもない。肢体は、いたるとろが、柔らかくなり、皺だらけだ。体は前屈みとなり、感覚器官、眼という感覚器官、耳という感覚器官、鼻という感覚器官、舌という感覚器官、身体という感覚器官には、異常が見られる。」
世尊はこのようにいった。そういって幸せな人である先生は、さらに次のように言った。
「惨めな、厭わしきかな、老いよ。
醜くする老いよ。かわいい姿も老いによって打ち砕かれる。
人は、100歳となっても、死を遁れることはない。
老いは、いかなるものも遁さない。
老いは、全てを打ち砕く。」
なんともさびしいですね!